海陽町おすすめみどころマップ

発刊にあたって

海陽町の「まちみらい課」より昨年、町の活性化を目指して8部会にわたって、町民のみなさんへの部員の募集がありました。そのうちの「ねんりん部会」には23名の町民からの応募がありました。「ねんりん部会」で町の活性化について話し合ったところ、町内の「おすすめ、みどころ」について、町内外の人たちに知っていただくために「みどころ、おすすめ」についての地図を作製しようということになり、NPO法人「あったかいよう」の設立もあって、「ねんりん部会」での話し合いをもとにした「海陽町おすすめ、みどころ」という地図を作りました。
この地図に掲載した「海陽町おすすめ、みどころ」について町内外の人たちによりよく知っていただくとともに、将来にわたっても海陽町のおすすめやみどころを伝えていってくださることを願って、この冊子を作製した次第です。
この冊子をもとに、町内外のみなさんのつながりが深まり、そのことが町の活性化につながっていくならば、幸いなことだと思っております。

平成30年8月
NPO法人 あったかいよう

 

「海陽町おすすめ、みどころ」の地図に掲載した個所で、関連した資料が見つからなかったり、その個所へ行くための道(路)が不備な場合や、その個所での見晴らしがよくない個所、その個所の表示が不備な個所については説明文を掲載していません。
説明文を掲載しなかった個所
十二社神社  青芝神社  自然公園記念碑  木ノ元展望台

海南地区

海部川流域は、弥生時代から人が住みつき、古墳時代には大里古墳群によって代表される文化を持っていました。この海部の人々が信仰し、一族の強いまとまりの中心となっていた神社が延喜式(平安時代中期に編纂された格式律令の施行規則で、三大格式の一つ)神名帳にみられる和奈佐意曽神社であると考えられています。もとは、すぐ近くにある大里八幡神社に祀られていましたが、延喜式の神名を伝えるため、分祀(分けて祀ること)されたものです。御祭神はいろいろと言われていますが、まだ確認されていません。和奈佐意富曾神社の祭りの氏子は海部、海南にまたがります。

大里八幡神社

郡内一の延喜式内社。元は那佐浦に鎮座していましたが、天正年間に鞆奥の大宮山に遷座し慶長9年(1604年)に大里松原の現在の地に遷座されました。

だんじりの起源について
江戸時代に奥浦の庄屋、志方与右衛門が考案したものであると伝えられています。関船とは昔の戦艦の事です。
関船は、鞆浦の漁民たちが、だんじりに関船を取り付けたもので特に豪壮で、船頭につけた八幡大菩薩のマークが特に印象的です。

大里古墳

6世紀から7世紀初めにかけてつくられた古墳で、直径20m、高さ4~5mの円墳です。墳丘の内部に横穴式石室を設け、那佐湾周辺の那佐石が使われています。海部川下流域周辺の有力な海部(あまべ)の長を葬った古墳であろうと考えられています。県史跡第1号に指定されました。
御鉄砲屋敷の迷路(大里)
「御鉄砲」敷地の垣や小路(路地)に「寒竹」を植えたことで形成された「大里迷路」はこの街の最大の景観要素です。「寒竹」は3mほどになるので密生するとまったく見通しが利かなかったといいます。“朝迷い込んで来たお遍路さんが昼にはまた同じところに回って来た”という話が残っているほどです。「寒竹」を叩いて繊維を採り火縄の材料としました。

松原記念碑

海陽中学校の隣にある町民グランドの西角(海陽町営バス停留所近く)に「記録彰」として「松原記念碑」があります。その碑文は次のように書かれています。
記録彰  景勝(景色が良いこと)大里松原はもと国有地なりしも明治41年素封家(財産家、金持ち)丸岡関蔵氏の賛助(賛成して助力すること)と19有志の先見的識見と献身的協力により大里部落有となる。更に大正14年部落有財産整理統一により川東村有となるも、その使用及び収益占有権(自分のものとする権利)を確約実行し現在にいたる。当松原は吾人(私たち)の物心培養の基調にして悠久の余沢(先人が残しためぐみ)を受く。碑を建立し由緒を録し先人の偉業を偲んでこれを後代に伝える。
昭和31年1月  大里部落

大里松原

大里松原は、南端の浜崎三本松から北端の五反田部落に至る4,4㎞、県下一の松林。この松林は最初にいつ誰が植えたのか不明ですが、樹齢から推定して江戸中期に防潮林として植えられたものと考えられています。現在樹齢200年余りの老松の100本を含め、生えている松の数は約10万本あります。
天保のころ(1840年)に海部郡代高木真蔵(思風)が大里部落を巡視した盛夏に、「松原や凡そ一里の蝉の声」と吟じた有名な句が残されています。
明治40年(1907年)までは蜂須賀家の所有地であり、大里の中川家と奥村家が松原を管理していました。明治末ごろ、小松島市立江町の森氏、阿南市新野町の増井氏が松原の荒地を開拓し始めましたが、事業資金が不足して、ついにこの広大な松林の払い下げを受け、伐採して経費の捻出を計画しました。このことを知った大里部落の代表者中内政太郎をはじめ18名が郡長に陳情を続け、部落一致団結して、ついに大里部落へ払い下げを受けました。その後、歴代の村長はこの保安林、防潮林の保護と管理に努めてきました。現在この松原は、「日本の砂丘、青松100選」にも選ばれています。
江戸初期までは雑木が生い茂る砂丘でしたが、大里西の原野であった「四方原」が新田開発されるのと前後して、大里海岸の開拓も始まりました。耕作地が増えるに伴って、農作物の塩害を防ぐため、防潮林の植樹も行われました。現在は台風、地震、津波等の被害から地域住民を守ってくれる、まさに「大里松原は大里の生命線」となっています。
毎年、松くい虫によって松が枯らされるのを防ぐために、地上散布による農薬散布が行われています。そして大里部落による松林の雑草の刈り取りと、海陽中学生と一緒にクロマツの植樹活動を毎年行っています。

大里松原一の老松

大里松原で、現在樹齢200年余りの老松が100本、まだ年数がたっていない松を含めると生えている松の数は約10万本あります。これらの松の中で最も年数がたっている松は、松原町民グランドのバックネットの近くにある2本の松です。

俳人柳後亭基雪(りゅうごていきせつ)

基雪は大里飯持の鶴和家に生まれ幼少のころは金次といい、成人して省吾といいました。江戸時代後期の俳人です。京都の芭蕉の法会に招かれ病身を省みずに旅に出、その時の「風に散るも 又おもしろき 桜かな」が辞世の句となりました。
隣に海部郡代 高木真蔵(思風)の「まつばらや 凡そ一里の 蝉の声」の句碑が並んでいます。

エノキの板根


このエノキは幹囲が地上1.3mの所で3mあり、根が地上に浮き上がり板のようになっています。それで板根と言われ、大変珍しいです。根の幅は(高さ)幹に近いところで1.1mはあります。
板根で有名なのは西表島のサキシマスオウノキという熱帯植物で幅は3m以上もあります。

四方原開拓之碑

四方原開拓の偉大なる先人、名門野村一族・郎党36名と元山内家臣御旗奉行田村半之亟由来の碑。

乃一開拓の旗復元の碑

阿波人が成し得なかった困難極まる四方原開拓を成し遂げた36名の先人土佐武士(もののふ)に対する供養の碑で碑文は二千字に及びます。

海南文化村

町の歴史を語る数々の埋蔵物、伝統芸術が保存されています。ここでは先人たちが伝えてきた文化や歴史を学び、感じ取るだけでなく、現代の新しい文化を創造していく場所でもある、次の施設があります。
・海陽町立博物館
阿波国を代表する海部刀や70,088枚の大量の出土銭が保存されています。また、大里古墳を復元したジオラマなどが郷土の文化を今に伝えています。町の歴史を物語る民具からは先人の生活環境や文化を知ることができ、特色のある展示室になっています。

・海南文化館
演劇、コンサートなどに使える420席のホールは、和風感覚で楽しめるよう移動式の畳や桟敷も設置されています。他にも会議室や管理室があり、文化村のインフォメーションにもなっています。

・いきいき館
いきいき館の中央には、交流のシンボルとなる大囲炉裏テーブルがあります。
館内には人々が気軽に寄り合い「和の輪」を広げてもらうための「ふれあい室」が設けられています。

・工芸館
生涯学習の作業場として、陶芸、染色、木工それぞれ設備を整えており、体験学習もできます。大人から子供まで幅広く楽しめるよう、染色体験やオリジナルの木工作品づくりなど様々なプログラムが用意されています。

・三幸館
調理実習室は、生涯学習の場としても利用することができます。またギャラリーとしていろいろな展示もできます。

吉野城址

吉野城(館)は永正年間(1504~1520)のころに藤原下野(栃木県)守持共によって築かれたと伝えられています。土佐長宗我部の侵略を防ぐため、海部城(鞆城)が本城となる永禄年間(1558~1569)のころまで、およそ50年余りの間、吉野城を本城として海部一円を治めたといわれています。
平城と山城の二城から成り、平城はお屋敷といわれ、常時は城主の居館(土居)でした。現在は田んぼとなっていますが、田地の形から館の堀と思われる細長い田が東北西にあります。以前は森で藤原さんと呼ばれる神社が祀られていました。山城は本丸と呼ばれ、戦になると使用する砦で、平城より約200mほど北、愛宕山の山上であったと伝えられています。山頂には愛宕神社があり、敵の攻撃を防ぐための空堀(水のない堀)と思われる跡が残っています。

熟田庚申堂

十干十二支の組み合わせの中で、庚申の日は60日に1度回ってくるが、この日の夜は眠らずに過ごさなくてはならないという信仰があります。
この夜は、三尺の虫が睡眠の中の身体から抜け出て天に昇り、天帝にその人の罪過を報告するのだといいます。もとは道教の説でしたが、平安時代の貴族社会に受け入れられ、庚申の夜は夜通し語り合い、酒食の宴を催す風習が生まれました。室町時代の末ごろから、庚申待ち供養の塔を建てることが行われだし、猿の信仰とも関連して猿を神の使いとする山王信仰とも結びついていきました。また、江戸時代に入ると青面金剛が碑に刻まれるようにもなりました。

本町では徳島県下で多く見られる石柱に青面金剛を刻んだものは少なく、各在所の寺や庵の内部で祀られていることが多いです。最もよく知られているのが熟田の庚申さんです。平坦部や川上の比較的平坦部に近い地域などでは、庚申さんと言えばほとんど熟田にお参りに行ったものだったといいます。「話は庚申さんの夜にせえ」などといい、一晩中寝ずに話や遊びごとに打ち興じたということです。また、失せ物を出してくれるともいわれており、普段の日でもお参りをする人がいます。布で作った猿を供える習慣があり庚申さんが祀られているお堂などには、猿のこしらえものを千羽鶴のように長く繋いで天井から吊るしてあることが多いです。

川上地区

大比大杉(海陽町平井字大比)

平成19年12月26日に海陽町鞆奥の森下元晴氏(故人)が徳島県へ杉の大木約550本を寄贈なさいました。山林面積 95,700平方メートル、樹齢は60年、90年、100年、130年の杉で、目通りの直径が60㎝~130cmで、水源涵養林、保健保安林として管理されています。海陽町平井字大比の集落の手前から50mほどのところにあります。
〈行きかた〉
県道の下にかかっている橋を渡って左へ進み、50mほど進むと杉林が見えてきます(足元注意して、運動靴がよい)。

川上農村広場(所在地 海陽町神野字神野前)


植樹してから40年ほどの桜が35本ほど農村広場の周りにあって、桜が咲くと見事な景色を楽しむことができています。

轟神社と轟の滝

知られざる清流海部川。この川の上流に、どうどうと水音とどろく轟の滝があります。「日本の滝100選」の一つで、四国一の滝。本滝の上流にはそれぞれの趣をもった大小さまざまな滝が連続してあり、総称して轟九十九滝と呼ばれています。山全体が滝の回廊のようで、本滝から最上部の「鍋割の滝」まで約1,500mあります。遊歩道があり、往復2時間もあれば、ゆっくりと散策を楽しむことができます。本滝の滝壺は修験者の行場でもあり、轟神社の夏と秋の例祭には神輿が滝壺に入る行事が行われています。

御崎神社(海陽町若松)の鐘

高さ41,1cm、口径27cmで青銅製の小型鐘。この鐘の銘文には次のように書かれています。

阿州海部郡 細野村御崎 御宝前鐘也(細野村は若松のこと)

永享四年十一月吉日 願主 衛門大夫  (永享は室町時代)
若松は細野村と呼ばれていて、室町時代にこの鐘が御崎神社に奉納されています。若松の文化を知る貴重な資料です。(この鐘は海陽町博物館に保存されています)

光照寺(海陽町神野)の口

円形扁平体の青銅製。面の径22cm、厚さ8,5cm。銘文に「応永四丁丑季十月二十五日 敬白○道 」と書かれています。○道は僧侶の名であると考えられています。応永四年(1397年)は室町時代で、神野の文化を知る貴重な資料です。(この鰐口は海陽町博物館に保存されています)

保瀬切れ

明治25年(1892年)7月25日、保瀬の大崩壊が起こりました。午後2時ごろ川南の山腹が一大音響をたてて崩壊し始め、たちまち谷を埋め、川をせき巨岩を北南の上方まではね上げました。濁流は川上に向かって流れ、杉尾の下まで湖状となったという記録があります。山ふもとの人家3軒、家族あわせて11人と投宿していた山稼ぎ人36名、馬3頭が生き埋めとなりました。翌日の26日には大水が土砂の弱いところを破り流下し、海部川下流一帯は大被害を受けました。崩壊後十数年たって、居住者は移住しましたが、昭和30年後半、石谷、成田、岡部、成田の4家族が再びここに住み始めました。
この災害を後世まで伝え、犠牲者の霊を慰めるため昭和10年11月10日に記念碑が建てられました。その後、崩壊75周年には地元老人会が慰霊祭を実施しました。平成4年には崩壊後100年を迎え、地元の人々が中心となり供養塔を建て慰霊祭を行いました。また新しい記念碑が平成5年12月、町観光協会によって建立されました。

刀匠 海部氏吉の碑

海陽町相川字笹無谷の入り口に初代の海部氏吉の碑があります。
初代の海部氏吉が海部川のほとり(相川の笹無谷口)で刀を作り始めたのは今から約650年前の南北朝時代の頃です。当時海部川一帯を支配していた豪族は海部氏でした。この海部氏が後に海部城主となりました。海部城主の左近将監吉辰という人は自分で刀を鍛えました。「強い武士をつくるためには優れた刀を作らなければならない」と考えて、遠く九州や相州から名工を呼び寄せて鍛刀技術の研究に励みました。海部川筋からとれる良質の赤土、水、木炭、中国地方から取り寄せた砂鉄を材料として、そしてその上に海部城主の政策が一致して「海部刀」が作り出されました。このように海部一派の刀工は、海部城主が数代にわたって積極的に刀作りを進めたので、海部川を中心に雨後の筍のように出ました。
氏吉、泰吉、氏次、氏重、氏房、氏宗、泰永、藤など、60人余りの刀工が刀作りの技を競い、室町時代から戦国時代にかけて「海部刀」の刀工の全盛時代となりました。

谷原 公氏の碑

海陽町相川字笹草で明治17年に出生。明治、大正、昭和の三代を生き抜き、昭和57年、98歳の天寿を全うしました。川上村書記、大里小学校訓導、川上村助役、小川小学校長、海部郡会議長、川上村長、徳島県議会議員、衆議院議員(12年間)、徳島弁護士会会長、社会福祉法人阿波井島保養院理事長等の要職を勤めました。国道193号線の笹草の道端に、刀匠海部氏吉の碑と並んでこの人の碑があります。
若い時代には轟の滝、おんばヶ獄の冷水に打たれて心身を鍛えました。またさまざまな政治活動をしながら、明治大学で法律や政治について学び弁護士の資格を得ました。常に書物を読む読書家でもありました。

福岡 博氏之像

海陽町相川の相川橋(国道193号線沿い)の手前に、福岡 博氏の像が建てられています。その前面に氏の功績について次のように書かれています。

福岡 博氏の像  勲5等雙光旭日章
大正11年3月海南町小川字樫の瀬に生まれ、昭和21年海南町相川福岡ウエ子さんと婿養子縁組し、福岡家の後継者となる。氏は小学校時代より頭脳明晰、徳島師範と陸軍航空学校に合格、後者を選び東京陸軍航空学校に入学、卒業後水戸飛行学校教官として後輩の指導に専念,昭和20年8月終戦復員した。以後の職歴は、川上農協3年、川上村並びに海南町役場書記14年、助役3期8年、昭和46年海南町長に初当選以来5期20年町長の重責を果たし、平成3年4月勇退した。在任中の主な役職、海部郡町村会会長、徳島県町村会会長、県森林土木協会会長、県山村振興会会長、海部川森林組合長等を歴任。主な業績として町内交通網の整備、町庁舎並びに幼小中校舎の改築、郡内一の中学校体育館の建設、図書館並びに福祉施設の創設、マリンタウンや蛇王運動公園の建設推進等々、郷土海南町の発展と全県下繁栄のために持てる才能を遺憾なく発揮、多大なる実績をあげた。その功績を称え、後世に伝え残すべく銅像を建立した。
平成4年5月吉日  福岡 博記念像建立期成同盟会

浅川地区

鯖大師

浅川の鯖瀬字中相にあり、本尊は弘法大師でこの寺を開いたのは行基菩薩だと伝えられています。記録によると、元禄2年(1689)「四国編礼霊場記」の中に鯖大師の名があり、享保2年(1717)まで鞆浦の浄土宗弘誓寺の末寺でしたが、浅川村曹洞宗の末寺となり、曹洞宗に改宗、文政10年(1827)のこの年に本堂を再興、昭和16年(1941)曹洞宗を真言宗に改宗し、独立して鯖大師協会となり、この年に本堂を新築しました。現在寺では「阿波国鯖大師本坊由来図」という大形の絵図を作って参詣人に渡しています。
昭和50年(1975)に前々からあった宿坊を3階建てのへんろ会館(100人収容)に改築し、平成2年度に第2、第3へんろ会館と護摩堂と本堂を地下洞窟でつなぐ大工事を完了し、大型バスが3台来ても宿泊できる施設となっています。
鯖大師庵と集落の人たちとの関りは古くから深く、庵主の生活は地区の人たちがおおむねみてきました。収穫時の産物、薪、労力の提供が集会所であり、土用の実盛さんの虫送り、ご祈祷は地区の人たちが総出で、青年男子は各家から米を集め、大きなおにぎりをたくさん作って庵に持参して供え、賑わう地区総出の酒宴の肴を青年女子が料理し、女の人や子供たちはおにぎりをもらいに集まってきました。
春の正明忌に近郊の僧が集まって大般若経を読経し、境内で婦人会は店を出して大勢の参詣人で大変な賑いであったとの伝説が残っています。

千光寺薬師如来出現の図(絵馬)(海陽町浅川)

この絵馬は平安時代の大津波を描いたものです。海岸から約300m内陸にある古刹千光寺の本堂に縦約1m、幅約1,6mの大きな絵馬が掲げられています。「永延元年亥五月手羽嶋に出現し給ふ図」。画面いっぱいに激浪が逆巻き翻弄される(思うがままにもてあそばれること)小舟から必死に助けを求める漁師たち。雲の上には光を投げかけながら救いの手を差しのべる仏の姿が見えます。平安時代の永延元年(987年)に沖合で大津波が起き、寺の本尊.薬師如来が現れて人々を救ったという言い伝えを描いたものです。21代の住職の本多照可さんは「この周辺は何度も南海地震に襲われている。津波に備える気持ちを忘れないため、古くから地域全体で大切にされてきた」と話しています。四国沖を震源とする南海地震は「日本書紀」に記された白鳳南海地震(684年)以降、計8回の歴史記録が残っています。987年の記録はなく、絵馬に描かれた津波の正体は不明ですが、海陽町博物館の学芸員・郡司早直さんは「知られざる南海地震が起こしたのではないか」とみています。その根拠は約180㎞離れた奈良県広陵町の遺跡から、同じ10世紀末ごろの 地震による液状化の痕跡が見つかったこと。津波を伴う強い揺れが広範囲で起きたことを示しており、南海地震の可能性が大きいということです。南海地震は100~150年周期で起きると言われています。
徳島県内で最大の犠牲者を出した浅川の天神社の広場には「南海大地震記念碑」が建てられています。

昭和南海地震記念碑

「昭和21年12月21日、午前4時21分に大地震が起こった。地震が起こってから10分余りで津波が襲来、第1波の高さ約2,7m、第2波約3,6m、第3波約3,3mを記録した。死者85名、傷者80名、流家流失185戸,全壊161戸、半壊165戸に及んだ。その他船舶、漁具、家財および農作物も多数流失した。」

海陽町浅川では、昭和南海地震で徳島県内で最大の犠牲者が出ました。浅川の天神社の前の広場に「南海地震記念碑」が建てられていて、上記のことが碑に刻まれており、終戦後の物資不足の時世に多方面から援助を受けたことに感謝したということが書かれています。また、浅川にある「まぜのおか」に防災館があり、館内には浅川での昭和南海地震の惨状の写真がたくさん掲げられています。

ヨハネス・クヌッセン殉難の碑

遭難
1957年(昭和27年)2月10日午後9時40分頃、名古屋港から神戸港へ向かっていた、デンマークの海運会社マースク社所属の貨物船エレン・マースク号は、和歌山県日ノ御埼沖の紀伊水道を航行中、徳島県浅川の機帆船(木材運搬船)「高砂丸」が炎上しているのに遭遇しました。風速20mを超える強風の中、エレン・マースク号は「高砂丸」乗組員の救助作業に当たりました。エレン・マースク号は救命艇を下して高砂丸船長を救出するものの、力尽きた高砂丸船長はエレン・マースク号の縄梯子から海中に転落しました。エレン・マースク号に機関長として乗り組んでいたクヌッセンは、高砂丸船長を救うべく海中に飛び込んだが、そのまま波間に没しました。翌朝クヌッセンは、エレン・マースク号の救命艇とともに、和歌山県日高町田杭地区(日ノ御埼の北側にあたる)の浜に遺体となって打ち上げられました(39歳没)。
この海難事故では、高砂丸の船員3名全員とクヌッセンの4名が犠牲となりました。
日本の船員を救おうとして殉難したクヌッセンの行動は、当時の日本で大きな話題となり、日本政府は勲五等双光旭日章を贈りました。

和歌山県では、事故の翌1958年には、事故現場を望む紀伊日ノ御埼灯台付近の日の岬パーク(美浜町)内に「クヌッセン機関長顕彰碑」が建てられました。また、1962年には関西デンマーク協会の呼びかけによる義捐金で胸像が建てられています。顕彰碑、胸像のある一角は、「クヌッセンの丘」と呼ばれています。毎年2月には、地元のヨハネス、クヌッセン遺徳顕彰会による慰霊献花式が行われています。
遺体が打ち上げられた日高町阿尾田杭には「クヌッセン機関長遺骸発見の地」と記された供養塔が建てられ、その傍らの保管庫には救命艇が保存されて、地区の人々によって守られてきました。また、クヌッセンの勇敢な行動と無私の人類愛を讃える歌が二つ作られ、郷土史の副読本などで語られるなど、知名度が高いと言われています。

徳島県では、高砂丸の母港だった海陽町浅川でも、1958年に海陽町が頌徳碑を建てています。現在浅川漁村センターにあるこの碑に地元の浅川の子供たちが冬休みの行事として毎年清掃をし、献花をしています。

デンマークでは 2007年には海難後50年を記念し、郷里フレデリクスハウンのバングスボー博物館内の海事博物館にクヌッセン機関長記念コーナーが設けられました。

加島の堆積構造群露頭

加島の海岸(海陽町浅川)に分布している砂岩、泥岩は層になっていて、地層の表面や断面に堆積構造が見られます。古生物の生態や地滑り現象があったことがわかります。
加島城址へ行く坂道の登り口の左側に案内板がありそれには次のように書かれています。

徳島県指定天然記念物  昭和52年3月22日指定
加島の磯から潮干帯(潮が満ちたり引いたりする場所)にかけて分布する砂岩、泥岩互層には、地層の表面や断面に堆積構造がまとまって見られます。たとえば、地層の表面に水流や古生物の生態を示す痕跡(底痕)、地層の断面に粒子の異なる薄い層のラミナ(葉層)などの堆積構造が見られ、ほかにも海底地すべり現象に伴う変形構造、海底地震に伴う含水層の液状化を示す砕屑岩脈など海底斜面の堆積変形構造が見られます。
これらの地層ができた年代は今から約2,400万年以上前の新生代古第三紀で四万十帯南帯の一部を構成する地層と考えられています。

〈行きかた〉

徳島県栽培漁業センターの横の小道を進むと、テトラポットが並ぶ岸壁に出ます、岸壁から海中の一部が見え、それが天然記念物として指定されている堆積露頭群の一部です。

蛇王のウバメガシ樹林

蛇王神社の森一帯に広がるウバメガシの樹林は、昔から魚の保護や繁殖のための魚付保林として保護されてきました。そのため、古いウバメガシがそのまま残されて自然樹林を形成しています。ウバメガシは、西日本に広く分布する照葉樹林帯の植物で、備長炭の材料として知られています。

海部西地区

城満寺

城満寺は海部郡海陽町吉田にある曹洞宗の寺院です。1291年(正応3年)に曹洞宗の太祖(あることを始めた人)瑩山紹瑾によって開山(山は寺のこと、寺を始めた人)されました。曹洞宗では9番目に古い寺院であり、四国では最古の禅寺です。城満寺が付近の文化に与えた影響は大きく、付近には四国には数少ない曹洞宗の寺院が散在し、また城満寺の裏山は「禅僧山」と呼ばれ瑩山禅師の弟子たちが入って座禅に励んだという伝説が受け継がれています。禅僧山に生育する巨大な杉は「禅僧杉」と呼ばれ、座禅する禅僧になぞえられて珍重されています。
歴史
1291年(正応3年)海部郡司が開基となり、居城の吉田城下に城満寺を開きました。瑩山紹瑾は当時28歳であり、金沢の大乗寺に住して師の徹通義介のもとで修業していましたが、この時に招請されて城満寺の開山となりました。瑩山紹瑾は後に曹洞宗の太祖となりました。城満寺に入寺した際、瑩山紹瑾により、随行した眼可鉄鏡ら5名が戒(出家者、在家者の守るべき規則)を授けられました。鎌倉時代から室町時代にかけての城満寺の歴史はよく知られていませんが、1575年長宗我部元親(高知県)の進攻による戦火に遭って焼失し、その後大正年間まで復興されませんでした。大正時代になって、戸田吾雄が復興を計画し、それを受けて渡辺玄宗と渡辺頼應の師弟によって寺号が復活、大槻哲哉によって伽藍(寺の建物)が整備され今日に至っています。現在の住職は田村航也氏です。座禅堂が完成しており座禅を体験することができます。

寺山古墳跡

海陽町でも野江寺山の台地の上に、3つの古墳跡が残っていて、大正8年(1919)の調査記録によると、第1号は底径約9m、高さ約1,6m、第2号は底径約10m、高さ約2mの円墳で、天井石と思われる砂岩質の平石が露出し、石郭(周囲を石や土などで築き巡らしてある囲い)も荒廃して判りにくく、第3号は現在その痕跡もとどめず、灌木に埋められてしまっています。この古墳から曲玉(装身具として用いた巴状の玉、大きさは1㎝~6㎝ぐらいで、穴をあけて紐でつなぎ合わせ、首飾りや襟飾りとした)や祝部土器(古墳時代の後半から日本で作られた陶質の土器で、壺、甕,椀,杯,高杯、器台などがある)の破片が発掘されていて、その一つが祖父木神社に祀られています。
この古墳も大里の古墳と同じく飛鳥時代以前の造営と考えられ、そのころからこの付近に相当繁栄した集落のあった遺跡とみることができます。
このような遺跡の分布によって、海部川下流一帯は海部文化の発祥の地であり、海部族の根拠地として,海老池東岸から浜崎にいたる砂丘の内側の大里平野は,ムラからクニへ発達した大集団の中枢として巨大な豪族が居住していたことが推測され、大里古墳群は、その権力の象徴とも考えられます。

吉田城址

門前谷の上を春日神社の森の尾根続きに登ると、本丸と呼ばれる広さ約4アールの東西に長い矩形(直角四辺形、長方形)の平坦地に出ます。周囲に4尺(1尺 約33㎝)ぐらいの土提をめぐらし、中腹を幅3m、深さ1mの浅い濠が一周していたらしく、現在は西半部だけが残っています。ここから尾根を登ると天守と呼ばれる標高120mの頂上に達します。以前は水たまりができていたという平坦な広がりに、海部合戦に備えたと思われる礫石(小さい石)が多く残されています。
この城の越に吉田城があったことについては、阿波志に「吉田塁 在吉田村、 吉田庸俊拠此、 東臨海部川、 西隣諸山、高十丈(1丈 約3,03m)余、頂方八歩(1歩 約3,3平方メートル)平、臨南海、有春日八幡金剛三祀、天正十年奏元親、使北村閑斎守之」と見えています。
戦国争乱の時代の豪族は、自衛と示威(力や勢いを示すこと)のためにその居館を城塞化して塁、殿、土居城などといい、阿波国徴古雑抄の古城記によると海部郡に十七の殿があったとしていますが、その中には吉田城の名は見えていません。しかし、阿波の城の研究家の鎌谷嘉喜氏の調査では海部九城のうちに「海部城、吉野城、吉田城」があげられています。

ツチトリモチ

海陽町櫛川にある杉尾神社の境内のミミズバイの根元に、秋になると赤い卵型の花をつける「ツチトリモチ」というヤドリキ科の多年草が生えます。この植物は、本州、四国、九州、南西諸島までの山地の森林内に分布していますが、最近はほとんど全滅しかかっている上に、人家の近くで自生しているのは珍しいということです。
花は10月から12月下旬まで見ることができます。

ハッチョウトンボ

海陽町中山で見ることができます。日本産のトンボの中では最小種(体調:オス約2cm、メス約1,8cm)で、愛知県名古屋市の八丁畷に多く産したことから、この名がつきました。このトンボは、東南アジアからオーストラリアまで広い範囲に分布していますが、日本では、本州、四国、九州各地の湿地に局所的に生活しています。発生地が限定されるのは、このトンボが非常に小さいため、飛ぶ力が弱く、移動距離が短いこと、生息環境がかなり特殊であることを物語っています。
成虫は、発生地によって多少のずれがありますが、5月から7月ごろ、浅い湿地帯で見られます。成熟したオスは鮮やかな朱紅色を帯び、黒っぽい横紋を持つメスとは対照的です。

母川のオオウナギ生息地(海部裂け岩)

母川は、熱帯性の鰻であるオオウナギ生息地の北限地帯として1923年に「大鰻生息地」国の天然記念物に指定されました。区間は通称「裂け岩より上下流各13町内」です。
その後1956年に指定区域からさらに上流に13町以内の河川敷が追加指定され、名称も「母川オオウナギ生息地」と改められました。
昭和30年代前半頃より、生息環境の変化などによりオオウナギの確認情報が減少していましたが、平成28年度に母川流域での聞き取り調査などでは、母川や支流での小型オオウナギの確認情報が寄せられています。同時に町内の近隣の河川からも大型の捕獲情報も寄せられました。近い将来、指定区域でも大型のオオウナギの確認情報が寄せられそうです。
オオウナギは体長2m、重さ25㎏、胴回り60cmに成長します。
温かい所を好み、本州・九州・四国の太平洋沿岸に棲んでいます。
普通の鰻とは「種」が異なり、比べて数が少ないです。

野江不動尊の灯明杉(野江)

野江の波切不動尊の前に並ぶ老杉2本で、落ちかかった巨岩を支えた形を保ち、伝説を生んでいます。
弘法大師が大岩の前に杉箸2本を立てたところ大木に成長した話や、海から出た灯明が大すぎの梢に飛んできて七晩光った話など。
樹齢100年以上と推測され、目通り周3.7mに及びます。

海部閑六 顕彰碑

海陽町高園にある母川橋(近くに母川の おおうなぎのせり割り岩がある)のすぐ近くに海部閑六の碑があります。閑六は天保4年(1833)海陽町高園村西野江で生まれました。京都に出て剣、槍の修行に励み、後には岩倉具視(いわくらともみ 幕末から明治維新期にかけての政治家)の護衛役となるとともに、その信任を得て高く取り立てられました。そして政治活動の場にも出るようになりました。
岩倉には絶えず刺客がつきまとっていましたが、閑六はよく守り、六尺豊か(約180cm以上)の大男の体は無数の刀痕でおおわれていた、といわれています。閑六の碑の頭には「幕末の志士」と彫られています。明治維新の時期、徳島からも多くの若者が志士(国、社会のために自分を犠牲にして尽くそうとする気持ちを持つ人)として世に出ましたが、閑六も志士の一人でした。

冨田潔翁 顕彰碑

国道193号線沿いの海陽町大井に(海部川にかかっている大井大橋の下流70mぐらいのところに)富田潔翁の顕彰碑があります。それには翁の業績について次のように書かれています。

翁は明治二十五年7月本町大井に生まれ、大正三年三月徳島師範を卒え、教職経験二十二年神野小学校長を最後に退職し、昭和二十二年四月川西村村長、同三十年四月初代海部町町長に公選せられ、同三十八年四月勇退するまで通算四期十六ヵ年勤続、その間、海部川改良工事の主宰、上水道敷設、海部町庁舎、母子健康センター並びに東西両小学校校舎等の建築、鞆奥漁港修築、国鉄阿佐東線敷設推進、海部川沿岸岸用水の完成等、幾多の大事業を遂行し、自治功労者として三度表彰された翁の多年にわたる顕著な業績は、その円満にして風雅を愛する人格とともに深く町民に敬慕されるところとなり、ここに篤志の浄財をもってこの顕彰碑が建立された次第である。
昭和三十九年三月 富田潔翁 顕彰会

海部東地区

奥浦と海部川

奥浦のムラができるまで

奥浦に人が住み始めたのは16世紀後半の頃からで、2世紀頃すでに村ができていたと思われる鞆浦に比べると、なんと1200~1300年も新しい。奥浦の開発がなぜこのように遅れたのでしょうか。その理由は、大昔奥浦の辺りは容易に人が住めない河原か沼沢であったからです。右の図に見るように、海部川の本流は脇宮山の麓から妙見山の裾を廻って、現在の奥浦の町内を通り、水量の多い時には楠社の境内にあった楠の大樹で二つに分かれ、鞆坂の下でまた一つになって港口に向かう流れ方をしていたらしいので、奥浦の町中はほとんどが河原か沼でした。妙見山の谷合や西山際、鹿が谷山の山麓など飲料水が得やすく、洪水の心配のない高台に住居を構え、付近の荒れ地を開墾して宅地や田畑を作るとともに、海部川の流路を脇宮では北の方へ、奥浦では東の方へ押し出すような堤防を築いていって、ついに今日のような町が形造られていったのです。

奥浦の開発史

天正3年(1575)土佐の長宗我部軍が侵入してきた頃には妙見山麓の北谷に僧宥性が庵をむすんでただ一人ひっそりと住んでいました。文禄元年(1592)に成就院という山伏が西谷に来て奥浦の住民は二人となりました。その後、元和7年(1621)に家数が13戸に増え、この奥浦開発13人衆が中心となって村づくりに励み、寛永20年(1643)に戸数67を数えるに至って正式に奥浦村が誕生しました。

海部川流域の開発と奥浦

海部川流域には古くから無尽蔵といわれる森林資源の宝庫でありながら、なにぶん遠隔辺境の地であることから、ほとんど未開発のままで藩政時代を迎えたのですが、蜂須賀氏の入国によって国内の秩序が整い、経済開発の体制が確立されるにつれて、藩財政の一翼を担う有力な資源として俄かに森林資源が脚光を浴び、徳島、京阪、地元商人の活躍と相まって、流通機構も整い生産活動もだんだんと活発になっていきました。
海部川が、その流域の経済的大動脈としての働きを発揮し始めたのはこの頃からのことです。即ち川高瀬船や筏流しなどによる森林資源の輸送は、この地域の生産活動を支えた重要な条件の一つであり、その一大拠点となったのが奥浦でした。

太平洋戦争後(昭和20年(1945)8月15日太平洋戦争終わる)に奥浦に現れた職業

鞆浦の漁獲、川西、川東の米の生産に対して、消費の奥浦は敗戦後の食糧難にはずいぶん苦しみました。第一次産業がなく第二次産業には土地が狭い奥浦は、残された唯一の第三次産業に捨て身で取り組むほかはなかったのです。
次にあげる職業が奥浦に戦後現れました(職業名のみをあげます)。
小料理店、食堂、喫茶店、お好み焼き屋、旅館、魚屋、八百屋、時計店,本屋、家具店、
ふとん店、オートバイ店、ミシン店、石油店、電気器具店、クリーニング店

以前は、宍喰から奥浦の町を通って、大里、浅川、牟岐方面へと乗用車、バス、トラック等が通っていましたが、国道55号線が奥浦を通らずに現在のように通るようになったため、奥浦の町の様子がすっかり変わってしまって、賑やかだった以前の姿はありません。

海部城址

海部城の築城年代はよくわかっていませんが、永禄年間(1558年~1570年)頃に海部左近将監友光によって築かれたと言われています。
海部川流域に勢力を持った海部氏が戦国時代末期に海部川下流の鞆浦に築城したのが始まりでした。海部氏は三好氏に従っていましたが、長宗我部元親が土佐国を統一すると阿波国の最前線となりました。
元亀2年(1571年)長宗我部元親の末弟である島弥九郎親益は、病気療養のために土佐国から海路有馬温泉に療養に行く途中、強風によって那佐湾に停泊しました。この知らせを聞いた海部友光は手勢を率いて島弥九郎を討ち取りました。これを期に長宗我部元親は阿波国へ進攻することとなりました。
天正3年(1575年)大軍を率いて海部城を攻めると、海部方の武将で鉄砲の名手栗原伊賀右衛門は攻め寄せる敵兵を尽く落としていました。しかし、長宗我部方の武将で槍の名手である黒岩治左衛門によって撃たれてしまい、ついに海部城も落城しました。一説にこの戦いは宍喰城での戦いで、海部城では主力が三好氏に従軍して留守であったため、抵抗する間もなく開城したとも言われています。
海部城を攻め落とした元親は弟の香宗我部親泰を海部城へ入れて阿波国の拠点としましたが、その後に牛岐城へ移っています。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐によって蜂須賀家政が阿波国へ入封すると、阿波九城の一つとして大多和長右衛門正之を入れ改修されました。その後、城番は中村右近大夫重友,益田宮内一正そして一正の子、益田豊後守行長へと替わりました。この行長は藩の掟を破り、木材を切り出して江戸で売り払い私腹を肥やして謀叛を企て処刑されました。
寛永15年(1638年)海部城は廃城となり、かわって東麓に御陣屋(郡代,代官の居所)が築かれました。
郡代(室町時代から江戸時代にかけての幕府、諸藩に置かれた職名。郡奉行とも。その土地の領主
に代わって、徴税、司法、軍事等の職務を、郡といった広い単位で担当した地方行政官のこと)。
説明
海部城は海部川河口の南部、海部小学校の東背後にある山(愛宕山)に築かれていました。現在は陸続きですが、かつては海部川が周囲に流れていた島でした。山頂の主郭部(日本の城の中核となる曲輪の名称。一の曲輪、本曲輪,一ノ丸とも言われます。 曲輪(一定の地域を限って、その周囲と区別するために設けた囲い、城や砦の周りに築いた土塁や石垣などのこと)を中心に山全体に曲輪が広がっています。

大岩供養碑

鞆浦漁港近くの大岩に、慶長南海地震(1605年2月3日)と宝永地震(1707年10月28日)の碑文が刻まれています。慶長の碑面には「南無阿弥陀仏と中央上面に文字が刻まれ、その下に、午後10時に30mの津波が来襲、100余名の犠牲者が出た」などと刻まれています。一方、宝永の碑面には「午後2時ごろ、約3mの津波が3度来襲したが、犠牲者はなかった」などと刻まれています。この慶長の津波碑は、四国で地震、津波の様子が記された最古の碑です。
教訓
地震、津波の様子が記された最古の碑が鞆浦の集落にあることは、この地域の文化の高さを示すもので、先人の誇りを受け継ぎ、徳島県南地域が日本一津波被害がない地域となるよう努力すべきです。

宍喰地区

長浜 (海陽町 宍喰浦)

今はほとんど砂浜がない状態ですが、昭和20年~30年代まではもう少し砂浜が広がっていました。その頃は現在の国道もホテルリビエラもなく、ホテルの辺りから宍喰川の河口まで低い海岸と松林や民家が続いていました。砂浜のテトラポット(離岸堤)は徳島県の事業で、昭和43年、46~49年、56年~60年にかけて高潮対策として設置されました。

宍喰川の船場橋跡 (海陽町宍喰浦)

船場橋は手前の道から向こうの土手まで架かっていた橋です。一昔前、昭和20年頃以前は、水道は普及しておらず、この土手の下やカモメ橋付近の下にあった洗い場で女子衆は並んで川の水を使って洗濯をするのが日課であり、社交場になっていました。現在は、船場橋はなくなり、土手も一部なくなっています。

(海陽町久保板取)

親水公園や福祉施設などができているこの辺りは、土場(どば)ともよばれる広い沼があり湿地帯でした。今でもその面影が残っている場所があります。
昭34年ごろまで伝染病隔離病棟がありましたが同年3月に旧海南町海南病院に伝染病棟が設置され、これにより宍喰の隔離病舎は廃止されました。

竹ヶ島の吊り橋跡 (海陽町竹ヶ島)

写真は竹ヶ島にかかっていた吊り橋の橋脚の跡で、今は新しい橋もできていますが、橋のない時代、人々はここを櫓の船で渡してもらって行き来していました(こちら側が竹ヶ島)。
船着き場や、定期船のようなものはなく、渡してもらうのを根気よく待つのは大変であり、あきらめる人や、泳いで渡ったり、大潮の干潮時には腰まで濡れて渡る人もいました。
吊り橋は昭和36年にできましたが幅が狭く、自動車の通行には苦労したようです。昭和48年(1973年)には吊り橋に並んで自動車の通行にも十分な広さの橋が完成し、交通の便が良くなりました。

水床湾と旧国道55号線 (海陽町宍喰浦水床付近)

国民宿舎水床荘のあった高台から那佐、水床湾、竹ヶ島を見渡す景色は本当に見事です。
旧国道は宍喰の町を通り、カモメ橋→港の横→ペンション宍喰の上→化石漣痕→水床湾→竹ヶ島の入り口→金目→水床トンネルノの甲浦側出口まで。竹ケ島は海中遊覧船やマリンジャムなどの観光施設が整っており、またシーカヤック、スキューバダイビングの体験型観光の場所としても利用者が増えてきています。

那佐の半島の民家跡 (海陽町宍喰浦那佐)

国道55号線から那佐湾越しに半島の方を見ると、ところどころ開けた土地が見えます。ここは以前に民家があって、人が暮らしていました。半島とこちら側とは船で行き来していたということです。

寺社 文化 歴史

島 弥九郎事件と三島神社(海陽町那佐)

阿波志によれば1568年(一説では1571年)土佐の豪族、長宗我部元親の弟島弥九郎の船が、有馬に療養に向かう途中、天候回復を待つため那佐湾(写真左))に入港した際、海部城の監視役海部三郎が土佐の偵察部隊と早合点、城に注進したところ、城主海部越前守は兵を出しこれを急襲、土佐勢三十人余りは全滅し、大将弥九郎は家臣三名と共に湾内の小島(写真右)で自害して果てたのですが、元親はこの知らせを聞き、弟の死を悼むとともに復讐を誓い、これが長宗我部氏の阿波侵攻の要因になったとされています。土佐軍記には那佐港の監視役海部三郎の軽挙が阿波全土を焦土化したと記しています。この事は島弥九郎事件として語り継がれることになりました。1578年長宗我部元親は阿波に侵入し、海部城を落とし、さらに美馬、三好の二郡を攻撃しました。その領主三好山城入道笑岩が織田信長に裁断を願った時、信長は「阿州南方には、長宗我部氏遺恨ある故に、是を赦す。共外阿讃予は公の幕下なれば、必ず私の弓箭とるべからず。~」と元親に手紙を送っています。

この事件は悲惨きわまりなく人々はこの岬を血の岬と呼び、これが後に乳の岬(写真右)に変わったといわれています。那佐村の人は弥九郎を哀れみ島の上に小塚を立て霊を弔いました。後年、長宗我部元親はこの地に三島神社として弟を祀り、家臣渡辺八太夫を神官として守護させました。三島神社は明治44年に那佐の氏神、吉野神社に合祀されました。境内には長宗我部氏の子孫方により記念碑が作られ、毎年弥九郎の命日には記念行事が行われています。

写真は吉野神社(左)と記念碑(右)。

大般若経 (海陽町宍喰浦423 大日寺蔵)

大般若経の書写体はもともと宍喰の祇園社の別当寺であった真福寺(大正元年に大日寺に合併)にあった貴重な写体で鎌倉時代の初期(建永元年、1206年)頃から真福寺(本通りの農協前あたりから弁天屋あたりまでにかけて建物と墓地があり、大日寺と真福寺の間には円頓寺というお寺もありました)の僧侶重慶(重慶はどういう人物か、宍喰の人間かどうかという事は分からない)等により筆記されたもので、最初は600巻ありました。巻末にそれぞれの巻が書かれた年号と重慶の署名がある事から書写されたのは鎌倉時代とされています。慶長9年(1604年)の津波のため被害を受け一部は浸水、流失したり、破損したりして、現在は569巻あり、当時のものは520巻残存し、その他は江戸時代に宇治の黄檗本(版経)により補われています。古本はすべて江戸時代に折本の改められていることが注目されます。奥書のあるものは不思議にも第3巻から大98巻までに限られそのうち57巻を占めます。しかも筆者は全て僧重慶である事が分かっています。この事は第1巻から第100巻までを(重慶が)筆写したことを推察させるものです。おそらくはこの般若経自体、重慶の発案によるものではないかと推察されます。


般若経は西遊記に登場する三蔵法師(玄奘 600または602年~664年)が実際に天竺から中国に伝えたお経で、大日寺には三蔵法師が般若経を背負う姿が神々と共に描かれた掛け軸がかかっています。(天竺=中国および日本で用いたインドの古称。)
重慶が、どこのお寺の般若経を写経したのかという事は不明です。般若経を写させる事を生業としていた人達がいたので、そういう事が関係しているのかもしれないとの事です。
なお、般若経は最初すべて巻物であり(故に一巻、二巻と呼ばれている。)儀式の変遷に伴って折り本の形に改められたことが推察され、それについての檀家衆の協力が記された物が残っています。
本県では鎌倉時代初期の大般若経は極めて珍しく珍重すべきものであり、またこの般若経は慶長9年(1604年)の大津波に宍喰がほとんど流失した時も不思議に難を免れ、浦里、氏子打ち寄り涙を流して喜んだとあり、その後においても一疫、一病流行の際や、その他の厄災、厄除けに町内を読経して回ることが例となったことが伝えられています。

宍喰の街並み (海陽町宍喰浦)

現在の宍喰地区の街並みは永正9年8月(1512年)の永正の地震と津波の後に復興された井状の町の形がそのまま残っていて、建設当時の通りの名前や地名がそのまま使われています。
例 ①寺町②加じ町③本町④南町⑤濱横町⑥松本⑦三反田等
宍喰町誌には、宍喰の円頓寺旧記に「永正10年12月(1513年)愛宕城主藤原
孫六郎元信」、阿波志に「藤原元信、木本孫六郎と称す。宍喰愛宕城に居る」との記述が
あることからその時の愛宕城主は藤原孫六郎元信であったと推測されます。
写真は永正の津波の後に復興された宍喰の城下町の図です。 図面で左の山が愛宕山城、城の右側に町が井状に作られています。それぞれの通りの名前が読み取れます。(「震潮記」より)

八坂神社(祇園社、祇園宮) (海陽町久保)

本社の祭神はスサノオノミコトで、もともと脚咋別の始祖鷲住王を氏神として祀っていましたが、彼の尊敬するスサノオノミコトを氏神として崇めるようになりました。本社の創建は鎌倉時代以前とされています。これは真福寺の僧、重慶等による大般若経の写経が、その巻に書かれている年号の記録により、建永元年(1206年)から建暦三年(1213年)まで7年に渡り行われ、その後、祇園社に奉納されている事から分かります。
京都の祇園神社、広島県の沼名前(ぬなくま)神社、宍喰の八坂神社は三祇園と呼ばれ古い時代からの祇園神社であると伝えられています。大永六年(1526年)祇園山城主藤原下野守持定の命により本木五郎左衛門が社殿を再建、今の岡の山(鈴ヶ峰の登り口)近くにあったものを、慶長元年(1596年)現在地に移しました。本社の宝物として大般若経と能面がありましたが、現在はそれぞれ大日寺、八坂神社に蔵されています。祭礼は古くは祇園会と称し6月7日より14日まで8日間行っていましたが、現在は毎年7月16日、17日に行われており、能楽の奉納、山鉾の巡行、神輿と横笛、鼓、太鼓、囃子の町内還御、だんじり、関船の町内曳きまわしがあり、16日の夜には花火大会が行われます。

神社の祭り (海陽町日々原正田)

本社の祭神は水象女命(みずはのめのみこと)で水の神。創立は不明ですが寛保2年(1742年)の棟札があります。氏子は昔から水不足の時に雨乞いの祈祷をしました。古来、蛇にまつわる伝説があり、民話も残っています。毎年7月3日には例祭があり、あばれ神輿が知られています。神社の高い石段から、淵に神輿と一緒に担ぎ手も飛び込んで部落中を練るのが習慣でした。これができるまでは女人禁制であったと伝えられています。
その高い石段から淵に飛び込んで遊ぶ子供達の姿は夏の風物詩でした。河川工事で川幅が広げられたり、淵のそばに堰が設けられたりして伝説の淵も浅くなり、夏休みになっても神社付近の河原で遊ぶ子供たちの姿は今は見られません。

大山神社 (海陽町塩深鼻尾鼻49)

祭神は鷲住王。王は脚咋別(あしくいわけ、海陽町宍喰浦一帯の古称)の始祖と伝えられています。鷲住王の名前は日本書紀履中天皇六年二月の箇所に見ることができ、履中天皇の二人の后妃太姫郎女(ふとひめのいらつめ)と高鶴郎女(たかつるのいらつめ)の兄と書かれている人物です。父は鮒師別命(ふなしわけのみこと)とされています。脚咋別を開いた後、讃岐へ移動し、国造の地位を賜ったと書かれおり、現在は丸亀市の坂本神社に祀られています。鷲住王については皇族の一人と考える説や阿波忌部氏の一族の一人であったと考える説、その他諸説あります。古代の有力な豪族であったとされる人物がこの地を開拓し、人々に崇められ、祭神として祀られたのがこの大山神社です。鷲住王の一族の古墳が久保地区で大正11年に発見され、宍喰古墳として保存されています。
大山神社の呼び名は御山の意味で、当地の人々が祖神の鎮座する神域を敬って御山と称えたのを、後に社殿を造営し大也麻神社と称え、文字には尾山、大山と書いたようです。神社の規模は大きいものであり、今の角坂地区に神社の入り口にあたる大門があったと伝えられています。鳥居が峠を登っていたという華表坂(はなさか)、参拝者が垢離を獲り修祓を受けたとされる祓川(はらごう)、神子屋敷、神領地などの地名が現在も残っています。神社の社領内には12の僧坊があり各々一つの祠を持ちこれを祀っていましたが、今は成福寺(じょうふくじ)というお寺一つを残すのみとなっています。(現在大日寺の所管)当時は神仏習合であり神社には必ずお寺が付随していました。大門から大山神社までは参道があり、道に沿って12の僧坊があったと伝えられており社領の広大さがうかがえます。
多くの宝物を所蔵していたとも言われていますが、1783年の火災で本殿も焼け、宝物もほとんどが失われてしまったそうです。
宍喰を中心とする海岸地帯の住民が倭寇として活躍していた時代に、朝鮮から持ち帰ったとされる古鐘がありました。成福寺にはこの鐘の事が書かれている古い過去帳が保管されています。倭寇達が大山神社に奉納したこの鐘は1838年に阿波藩の藩主蜂須賀家に召し上げられ現在は東京上野国立博物館に保存されています。

船津の太刀踊りと河内助右衛門 (海陽町船津地区)

海陽町の船津地区には古くから太刀踊りが盆踊りとして伝わっており、その由来は次のようなものです。
源平時代、屋島の合戦に敗れた平家の武将河内助右衛門は郎党数名を伴い山を越え、谷を渡り、この地へ逃げてきて川沿いにわずかな平地を開き、農地を作り、居場所を定めました。その後長く船津地区の庄屋としてそこに在住しました。海陽町四方原の門脇家の古い記録に助右衛門が船津を再興した事が書かれています。助右衛門は門脇家の祖先。当時助右衛門はいつ源氏の追手が来るかを恐れて開拓の暇を見ては太刀を握って一党の調練を怠りませんでした。またお盆の三日間は亡き主人、平通盛(平数盛の長男)をはじめ一族の法要を行いその霊を弔い、この時日頃の調練を実施してその成果を仏に手向け霊をなぐさめていました。これが船津の太刀踊りの発祥と言われています。
この踊りは外敵に対する軍事教練が目的であったため、江戸時代には蜂須賀氏による領内保安のための厳しい取り調べを受けましたが、時の庄屋はお盆の仏の供養の踊りの一種であると申し開いて難を逃れたと伝えられています。

史跡 碑

民部岩(海陽町宍喰浦 宍喰川)

天正6年(1578年)土佐の長宗我部元親による阿波侵攻時、宍喰愛宕城に多田民部という勇将がいました。土佐軍の勢いは強く、城が陥落すると残った兵をまとめて宍喰川の堤で一戦交え、今はこれまでと川岸の大岩の上に座り土佐の兵に向かい「鷲住王の末裔、宍喰武士の最後を見よ。」と叫ぶと自ら切腹し果て、彼に従う将兵もこれにならって自害し、十畳敷きの広さの大岩は血で真っ赤に染まったとされています。
多田民部が自害した宍喰川の大岩は通称「大ねんぶ」と呼ばれています。付近にある「子ねんぶ」、「赤ねんぶ」と共に、これらの岩場は昭和20~30年頃は(もっと以前もそうだったと思われますが)子供たちの夏の川遊びの代表的な場所でした。

宍喰古墳(海陽町久保北田)

大正11年8月、地主の橋本祖一氏により発見された古墳で、前方後円墳か円墳か形ははっきりとはしないものの、横穴式の古墳で、昭和50年の同志社大学森浩一教授および県文化課藤ノ井親仁課長等による調査により「この古墳は6世紀のもの。その規模の宏大な事は、今まで四国地方で発掘されているものの中でも屈指の物である。」「この辺地にかかる墳墓をつくり得た者は相当な豪族で、この地方のみならず付近一帯を広く支配していたものと思われる。」と解説、証言されています。
この古墳は鷲住王一族の古墳であると伝えられていますが、発見されて以来の管理が不十分であり、副葬品その他の埋蔵物の紛失によりその明確な証左が得られなくなっているのは残念なところです。
また、歴史的な古墳であるにもかかわらず、グランド造成という理由により取り壊され、羨道と玄室部だけが形だけは移設・復元されているとは言え、その姿は元の宍喰古墳とは程遠いものになっています。
祇園山城祉(宍喰北城) 角力取山城祉と愛宕山城祉(宍喰南城)
(海陽町久保祇園山 宍喰浦正梶角力取山、宍喰浦愛宕山)
宍喰一帯は、承久の乱(1221年)の後、絶えず紛争がおこっていましたが、応仁の乱(1467年~1477年)以降、鷲住王の子孫と伝えられる藤原氏や元木氏を名乗る一族が勢力を持つようになり争乱はなくなり平和な世が続いたとされています(長宗我部氏の阿波侵攻まで)。当時宍喰には南北両城があり南は愛宕山城、北は祇園山城が築かれていたと伝えられていますが、その遺構などは残っていません。

祇園山城(八坂神社の後の山の上)

城主は藤原朝臣下野守持共で、鷲住王の子孫と伝えられ、本木氏です。永正時代(1504年~1520年)以前より久保村の祇園山に城塞があったとされ、持共の一族である藤原朝臣下野守持定は本木五郎左衛門と共に1526年に宍喰の祇園社を造営した記録が残っています。

城と愛宕山城(角力取山と愛宕山の上、写真上と写真下)

城主は藤原朝臣、本木孫六郎元信で、北城の城主同様鷲住王の子孫と伝えられています。もともと宍喰の正梶地区と馳馬地区の間にある角力取山に塁を築き宍喰を支配していました(これが角力取山城)。その後、分城があった今の愛宕山に城を構えここを拠点として宍喰の要としました。海部の吉野城は当時宍喰の別塁であったものが、城として本城として定められ拠点となったものです。後に藤原氏は海部氏を名乗り海部の鞆に海部城を築いています。愛宕山には現在は愛宕神社として火産霊命(ひむすびたまのみこと)、天神社、弁天神社が祀られています。

忠魂碑 (海陽町宍喰浦正梶 弁天山の上)

大正5年(1916年)2月、弁天山上に忠魂碑が建てられました。当時の在郷軍人会宍喰村分会の建立で、日清、日露の戦役に散華した英霊15柱をを奉祭して、毎年旧暦3月3日碑の前広場に招魂祭が執り行われました。大正14年からは宍喰町主催で行われ、さらに支那事変以降の数多くの戦没者の霊も合祀されて、引き続き丁重な祭祀が続けられてきました。
ところが太平洋戦争終戦とともに、忠魂碑の古称は軍国主義に通じ占領政策に反するものとして、進駐軍から撤去を命じられたのですが、宍喰町では、苦肉の策として「忠魂碑」の文字を消し「供養塔」と改めることとし、危うくこの撤去を免れました。その後の祭典は、招魂祭と呼ばず慰霊祭として神式、仏式、交互に毎年の祭祀を続けています。
昭和54年6月、宍喰町遺族会、軍恩会員からこの「供養塔」は「忠魂碑」に修復すべし、との要望が出され、再び供養塔の文字は消されて忠魂碑となりました。仏式による開眼式、神式による入魂式が行われ、同年8月22日竣工記念式が盛大に行われました。
全国的に忠魂碑のほとんどは大正期に建てられたと言われています。

お山の杉の子歌碑 (海陽町役場宍喰庁舎前)

歌「お山の杉の子」の歌碑は海陽町役場宍喰庁舎前の庭に建てられています。この歌は昭和20年当時の軍需相が全国より募集した小国民進軍歌に第一席で入選した作品を、戦後サトウハチロウ氏が補作し、佐々木すぐる氏が作曲し、安西愛子氏がデビュー曲として発表したもので、子供は宝、杉の木のように天に向かってまっ直ぐに伸びてほしいと世の親達の願いを、心を素直に歌い上げたもので歌詞は一番から六番まであります。
作詞者の吉田テフ子さんは大正9年11月6日 海陽町宍喰浦生まれで海部高等女学校、徳島女子師範学校卒業後、浅川小学校で教壇に立ち教員生活を送りました。30歳の時、戸畑市で市会議員となり政治面で活躍、昭和48年8月17日52歳で亡くなっています。

お山の杉の子 歌詞
作詞 吉田テフ子 (庁舎前の歌碑には一番の歌詞が刻まれています)
昔々の その昔
椎の木林のすぐそばに
小さなお山が あったとさ あったとさ
丸々坊主の禿山は
いつでもみんなの笑いもの
「これこれ杉の子起きなさい」
お日さまにこにこ 声かけた 声かけた

藤原氏次 中島源太夫墓碑 (海陽町宍喰浦309 宍喰郵便局前)

宍喰の中島源の研究調査により、藤原氏次の祖は海部城主藤原吉辰とされ、初代氏次は(康暦頃、1379年~)2代目氏次は(応永頃、1394年~)、3代目氏次は(文明頃、1496年~)
以降13代氏次(寛保元年、1741年~1776年卒)まで藤原氏次、中島源太夫の名前を襲名し刀匠として刀作りをしていたこと、14代以下刀作は絶えたことが冊子にされ、記されています。
また、文化12年(1815年)の阿波志には「藤原氏次、中島源太夫と称す。好く刀を作る。世々姓名を襲い治工となる。嗣今絶ゆ。」と書かれています。 (宍喰町誌より)
中島氏次は海部刀の刀匠海部氏吉の一派の刀匠。氏次の一派は宍喰の小谷で海部と行き来し、海部刀の作り方を取得していったのではないかと推測されています。愛宕城の北側下には鍛冶屋の長屋があり、これが今の鍛冶屋町に移ったと言われています。宍喰の刀鍛冶、中島家はこの鍛冶屋町にあり、中島源太夫一族の碑が立っています。(写真)
竹ヶ島にも鍛冶屋敷跡が残っており、竹ヶ島狼煙場の役人惣田家は宍喰浦に移り代々鍛冶屋を生業としていました。刀剣の製作が盛んであった時代には宍喰にも多くの刀鍛冶がいたのではないかと町誌に書かれています。

軍人墓地 (海陽町宍喰浦松原)

軍人墓地は町内各地にあり、先の太平洋戦争で尊い命を犠牲にされた方々が眠っており日本の恒久平和と繁栄を築いてきた礎となりました。戦争を長く後世に語り継ぐ聖地です。
写真は左側が宍喰診療所の前の松原の軍人墓地、中央が小谷にある軍人墓地、右側は竹ヶ島にある慰霊碑で、戦没者の氏名が後ろに刻まれています。日本が戦争という時代に入っていった時、この地域で平和に、普通に暮らしていた人達がいやおうなしに戦争に巻き込まれてきました。
宍喰地区の軍人墓地は松原、久保の浄福寺、日比原の井之上神社の手前の正福寺、匠田、安井、芥附の影畑、広岡、角坂の禮興寺、小谷、塩深、船津、久尾、那佐、竹ヶ島にあり、軍人墓地として整えられたり、一般のお墓と一緒にあったり、碑として整えられたりしています。
戦争で戦死、戦病死された方々をはじめ、軍人、民間人、大人、子供を問わず、戦争が原因で亡くなられた方々が大勢います。戦地等で消息不明になったままの方々もいます。戦争の残酷さ、平和の尊さを思うとともに、尊い命を犠牲にされた方々の冥福をお祈りいたします。合掌

自然 生物

鈴ヶ峰のヤッコソウ発生地

(海陽町久保板取238 )

鈴ヶ峰一帯の円通寺観音堂境内は椎を主体とする樹木で被われ、その根に寄生する「ヤッコソウ」の群生が各所に見られます。他にも本邦において稀に産する熱帯性の植物が多く繁茂し、見ることができます。
例:シロシャクジョウ、オンゴソウ、マツバラン、ナギラン、ルリダマノキ、カンザブロウノキ

宍喰浦の化石漣痕

(海陽町宍喰浦古目83-1、84-1、84-42、84-43、84-62、84-63)

大正時代の初期、水床湾付近の旧国道55号線を掘削中に発見されました。大きいものでは高さ約30メートル、幅約20メートルのものがあり、砂質泥板岩の薄い表面に「さざなみ」の跡が化石として残ったものです。その成因については未だ不明な点もあるようですが、地質時代の第3世紀新世(4500万年前)に、この地域は海面下にあって砂や泥が海床にたまって地層が出来つつあった頃、海底の複雑な水の流れが今見られるような模様を地層の表面に刻み、何らかの原因でその上に新しい泥が重なり、その模様が保存され、それが後に地殻の変動で海上に隆起したものであると言われています。
高知の竜串、和歌山の白浜にもありますが、規模、面積では日本最大で、昭和54年11月26日文化財保護法により国の天然記念物に指定されています。

参考資料

海南町史、海部町史、宍喰町誌、林博章著「日本の建国と阿波忌部」
藤井譲治・吉岡眞之監修解説「天皇皇族実録」ゆまに書房
香川県丸亀市教育委員会飯山町史、坂本村史、インターネットブログ

参考談話

岡田啓氏、佐藤修氏、木戸口貢淳氏、川部計美氏、京都祇園神社社務所
福山市沼名前神社社務所、福山市教育委員会、海陽町各地区の方々
NPO法人あったかいよう
編集委員 井上正
谷﨑丈雄
岡澤恵美子